老春時代の満足生活情報発信局(お金と暮らしと占いと人生物語)

還暦を迎え、人生を心地よく過ごし、もっと魅力的人間になる「楽しく楽しく生きる」ヒント探しブログです

自分軸で生きることで、命の時間を楽しく自分らしく生きていたい。

同士がいなくて寂しいという人の思いを聞いて、私もそうですよねと言われて、う~ん、違うと思ってしまった。

同士(同志)とは、こころざしや主義、主張を同じくすること。身分や境遇、性質などがお互いに共通している人。

私は自分軸で生きている人なので、同志がいないことに対して何も思わない。

自分以外の人対して何も期待していないし、ともすれば傷つけてくると思っているから。

この歳になったから言えることかもしれないけれど、何かをやり遂げることがあったら、同志は必要かなと思う。

国のために、よりよい国にしようと思っているなら、同志は必要だと思う。大きなことを成し遂げるには人の力、集団の力は必要だから。

だけど、そんな何かを成し遂げようと思わない私個人からすれば、同志は必要がないし、寂しいとも思わない。

自分の人生の中でかかわった人と何かしらの縁があり、良い関係を作れて、思い出が残ればそれでいい。

自分の性格をよくわかったきたこの頃だから、余計に思う。

私は元来お節介で正義感が強く、、私が私がというタイプ。故に、困った人がいると、手を差し伸べてやりすぎる。

特に感謝してほしいとは思わないけれど、案外本当は、私が思っているほど他人は困っていないとわかった。

何となく聞いてほしかっただけ。何かをしてほしいわけではない。

なのに、私は自分のことをひとまず置いといて、その相手のために一生懸命になる。

若い頃から、その繰り返しで、あ~、お節介だったんだと何度思ったことか。

親のおかげだと思うのだが、親が頼りがなくいつも我慢させられてきたので、他人対して期待をすることがなくなった。

身分や境遇が違っても、素直に受け入れる時代は、小学校時代の子供の頃だけだ。それだって親の影響を受けていれば、遊んではいけないと刷り込まれている子供もいる。

だから、同志というよりも、他人を自分の側に置きたくないと思っている。

1人が楽である。

寂しいと思ったこともないし、誰かに理解してもらろうと思うことはなくなった

どんなに仲が良くても、肉親であっても、決して理解していくれていることはない。

えっ、そんな風に思っていたのかと思うことが、この歳で気づいた。

ただ、寄り添うことはできるし、その相手をありのままに受け止めることができる。

相手をありのままに受け止めると言うことは、その人を否定しないことと、自分と違う考えや思いがあっても、自分の思いや考えを押し付けることはない。

あなたはあなた私は私と思っているから。

自分軸だから、お洒落をすることも自分のため。誰かと一緒に何かをしたいと思わない。旦那とも、一緒どこかに行きたいとも思わない。

腎臓病があるために、他人に合わせて行動することが苦痛だと言うこともある。

「人に頼らず自分らしく生きる。」これに尽きる

さびしいと思う人は、他人に期待して癒しを求めて承認要求が強い人なのかなと思う。

人にではなく自分の中に、癒しや楽しみを求めることができることが大切だと思う。

人は生まれてくるときも死ぬときも一人である。自分のこと自分以上に考えてくれる人はいないのである。

寂しいという人は、最近は、昔と違って、SMSという物があり、人と関わろうと思えば、かかわることができる。

私は、ニュースなどのコメントや、動画のコメント見たりして、なるほどこんな風に考える人がいるのだな、あ~、私も同感などと楽しんでいる。

特定の人と一緒にいなくても、インターネットの世界で、他人とかかわることができる、

いい時代だと思う。

慢性腎不全で、無理の利かない私でも、家にいて一人でも楽しむことができる。命の時間を、楽しく自分らしく生きたいと思う。