当然と思ってはいけない、当たり前と思ってはいけないこと。
昔、小説を読んで、なるほどと思ったことがある。
10代の頃の恋愛小説だった。
その主人公が、バイトで出前をする客に対しての行動の話。
その出前を届ける客は、いつも、おつりはいいからと言ってチップのようにくれる人である。
ある日、いつものように出前を届けて、お金を渡してくれたが、「いいよ、おつりは。」という言葉はなかった。
主人公は、すかさず「おつり、○○です。」と渡した。
客は、夜の商売をしている女性なのだが、びっくりしたように「いつも、おつりを用意しているの?」
「はい、あたりまえですから。」
「そう、君は、凄いね。人は、間違っていることでもそれが、続くと当たり前になるのに。ありがとう、とても、良い気持ちになったは、このおつりは大切なことを、思い出させてくれたわ」
この、シーンは私の心に、とても深く残っている。
人の好意を当たり前に、当然と受けてはいけない。
いつも、してくれるから、慣れてくると感謝の心がなくなる。
ともすれば、何で今日に限って、手伝ってくれないのか、助けてくれないのかと、期待を裏切られたと、相手の好意を、忘れて、怒りを持つ人もいる。
この当たり前を大切にしなければと少女だった私は、自分の生きるための指針になった。
特に人の心は変わりやすい。
昨日は許してくれたことでも今日は、ダメなことはある。
仕事では、自分が失敗したらいつも助けてくれる人がいるとして、それを当たり前のようになって、その人の負担になっていないだろうか?
当たり前は、他人に依存することに、繋がることだ。
当然ということも、当然だからという人がいるが、何が当然なのだろう。
良いことでの当然、当たり前がある。
あいさつをすること、食べること、寝ること、人としてのふるまい生きることの当たり前。
しかし、人の好意を、当たり前、当然と思ってはいけない。
それは、自分の価値を下げることにつながるし、努力のできない人間、他人の気持ちを考えない人間になる。
親が子供を愛することや守ることを当然と思ってはいけないし、当たり前と思ってもいけない。
親も、人間、人である。
感情というものがある。子供が、何人かいるとしよう。
すべての子供に、同じように愛情が注げるかというとそんなことはない。
愛することは、その環境で変わるし、子供の性格でも対応が変わる。
生活をしていると、その時の経済状態で、子供の望む愛情を、かけてあげられないこともある。
「当たり前」「当然」は、簡単に、手に入るものではないのである。
当たり前のことを、すると言うことは、努力と忍耐と人間性が、必要だ。
人は、悪いとわかっていても、止められないことがある。
喫煙、これは、身体に悪いし、いいことは何もない。ともすれば、他人も巻き込む。
禁煙しようとしても、失敗する人の話をよく耳にする。
身体に悪いとわかっているのに、当たり前のことなのに止めることができない。
そう、人間は、当たり前、当然と言うことを、なかなか、実行し継続できないのである。
社会において、「当たり前」「当然」が、守られることは、少ない。
仕事においては、当たり前のように、サービス残業があったり、理不尽だらけ。
「当たり前」を口にしても、受け入れてもらうのには、孤立するしかない時もある。
その悪しき現実を、「当たり前」「当然」と思ってはいけない。
生活がかかっているから、間違っていると思っても言えない。逆らうことができない。
生活をする中で、「当たり前」「当然」は、ない事のほうが多い。
「当たり前」「当然」を、実行しようとせれば、まるで、自分が普通でないような扱いを受けることもある。
当たり前をを忘れず、生きていくことが、他人を思いやることができるのではないかと思う。
生きていくのに、当たり前と思わないことは、いくつもある。
教師が、子供を導く、親が子供を愛する、警察官が正義、政治家が、国を思っている、宗教家が人格者、血のつながりが、絶対等、
当たり前と思わない生き方を、忘れない。
当たり前ではないのだから。
人として集団で生きるために必要なルールから、外れたら当たり前ではなくなる。
あたり前の大切さに、気づかないから、トラブルが起き、事故、事件が起きる。
人間は、感情の生き物だ。本来は、動物であるから、生きるためには手段は、択ばない。
だけど、知恵があり、理性があり、感情の中に、愛情ということがある。
だから、助け合い、みんなで生きることのために「当たり前」というルールを作ってきた。
当たり前、当然、は、人として生きるためにに、必要なことだ。
当たり前を大切にする。忘れない。正しい当たり前を身につけよう。