子供の頃に、何で生まれてきたのだろうと、考えたことはありませんか?
ネガティブな感じではなく、結構早くから、考えていました。
幼少の頃より、色々と経験が多かったからかも、しれません。
「人は、なぜ生まれてくるのか」
今も、その答えは、見つからない気がします。
死ぬときに、わかるのかなと思ってみたりしています。
親に虐待されて、亡くなってしまう子供や、生れてもすぐに亡くなってしまう赤ちゃんや、ひどい目にあって亡くなってしまう人や、80歳90歳と生きてきたのに、かかわった人が悪かったために、餓死しなければいけない人や、交通事故で亡くなってしまう人。
ある日突然、人生がを終わる。
老衰で、穏やかな「死」を迎える人の少ないこと。
人生って、何だろうと考える。
自分の歩いてきた60年を振り返って、特に、素晴らしいことをしたわけでもなく、後世に名を遺すことなく、私の人生もいつか終わりを迎えるのだろう。
できれば、その時に、「幸せな人生だった」と思えればいいなと何気に思っている。
でも、そのためには、今をどう生きればよいのかを、この年になっても、模索中。
一つ、自分の中で「愛」ってなんだろうと思うことがある。
夫を愛しているかと言われたら「愛している」言えなくって「好き」。
子供たちはといえば「愛している」なのである。
なんとなくであるが、私の中での「愛」は変わらない心の様な気がする。
「好き」は変わるものなのだと思う。
友達や親友を愛していると思わないけれど「好き」とは思う。
60年の人生のなかで、私のなかで「愛」については、強い心だという気がする。
人類愛とか大きな意味の場合は、「愛」なのだが、友人愛とは、私の中にはないようだ。
友人は「好き」か「嫌い」かの二つしかない。
「愛」は自分の命をかけてもよいものと言うことなのかもしれない。
今のところ、自分の子供のためなら、命を懸けても、惜しくないと思うほど、四人の子供たちを大切に思っており、どんなことがあっても変わらない。
たぶん私の場合は、親、兄弟に裏切られていることがネックなのかもしれない。
信頼していた友人に、利用されたことがあり、「友人愛」はない。かわってしまうものだと、わかったから。
だけど、「人類愛」はある。もしも、目の前で、困っている人がいれば助けるし、私を必要としてくれるなら、力を貸す。
直接関係がなく、その場で終わりなら、苦も無く助ける。
自分でもこの行動はよくわからないが、人として当たり前のことだと思っているから。
でも、手を貸した人、助けた人を愛することはない。
見返りを求めない、何も期待しない「愛」なら、素直に行動できる。とても楽だから。
たぶん、見返りや期待を、願って、裏切られることが多かったからかも知れない。
子供たちに対して、何も求めていないので「愛」があるのかな。
夫に対しては、求めているのだと思うし、疑っている、信じてない部分があるのかもしれない。(ちょっと、トラブルがあったから)
さて、私の人生も、後半。
この年でも、人生ってと考える時間があるようだ。
後悔しないことを目標に、自分らしく、生きていこう。
そしたら、答えが見つかるだろう。
お釈迦様も「死」と「生」について、考えて、数々の苦業をし、答えが見つかったのだろう。
私は苦業をしたいと思わないが、人として、生きるにはと思ってみようと思う。
人生は「人として生きる」と書くしね。