老いを考える。
見た目は、若い。
見た目年齢でいいやと思っていた頃もある。
わざわざ自分の本当の歳を言う必要がないと思っていた。
還暦を過ぎて、「60歳過ぎている」と言うことに、抵抗がなくなってきたこともあり、若いと言われると、「もう、60歳過ぎていますよ」
「見えない」「若い」と当然言われるが、中には「おいくつですか」と再度確かめる人もいる。
最近、自然体がいいかなと、自然の流れに従って、生きるのが楽ではないかと思っている。
自然体と言っても、抗うべきは、頭の老化。
年齢とともに、物忘れが、多くなった。人の名前や、話をしている時に、「あれっ、何を言おうとしたんだっけ]と思うことがある。
無意識に鍵や財布などを、置くと、思い出せない時がある。
そんな時は、時間を戻せという具合に、動いた順番にあるいてみる。
よほどのことがない限り、思い出すのだが。
鍵など細かいものは、何々のそばに置いたという具合にすると、忘れない。
無意識が一番悪い。
新しい記憶が、インプットできなくなっているようである。
生活に支障があるわけではない。
物忘れは、対処がある。
昔のことは、全然忘れないのだが、必要がないことは、人の名前であろうが、出来事であろうが、忘れてしまうようである。
長生きしても、ボケるのは困る。
多少の、物忘れは仕方がないと思っているが、生活に支障が出るのは、病気。
この病気「認知症」。
これにならないためには、「脳」を使わなければいけないと思っている。
老いを楽しむためにも、脳の活性化を心がける。
そのためには、足腰の老化は、脳の老化につながると思っている。
気力、これも大切であると思う。
私が若く見えるのは、気力があるからだと思う。
身体が、しんどくても、ずっと寝ているようなことはしない。
熱があれば別だが。
毎日、仕事に出るつもりで、服を着替え、身支度をする。
これは、絶対に、老化を遅らせると思っている。
女性が長生きなのは、鏡を見るからだと、聞いたことがある。
鏡を見て、自分の健康状態、感情の動きを、把握し、「今日は、ちょっと、調子が悪い」などと、自分の健康を自分で、感じるため、朝、一日の行動決めるからだと。
鏡を見ることは絶対に、自分の健康状態を知るために必要。
そして、今の時間を楽しむことである。
一日の中で、うれしいと思うことや幸せだと思う時間を必ず、見つける。
私は、幸せだと思う時間は、猫の茶々丸が分けてくれている。
茶々丸が、私の側に来て昼寝をしたり、部屋を移動すればついてきたりすると、とても癒されて「あ~、この子に会えて幸せ」とうれしくなる、それと同時に、この子のためにも、20年は元気でいなくちゃと思う。
それと、一緒にいてくれる夫には、感謝の念しかない。
「この人が側にいてくれて、幸せ」と。
老いを感じていくのは、少し不安が起こるから。
それは、大切な家族に迷惑をかけたくないと思うからだ。
もうそれ以上のことは何もない。
老いを楽しみ、幸せと感謝の心があれば、乗り越えていけそうな気がする。
それから、自分の人生を振り返ってみて。心にはりをもたせて、今を楽しむことで、老いを受け止められるかなと考えている。
お金がたくさんあるわけじゃないけれど、子供たちはそれぞれ、自立し頑張ってくれている。
夫とは時々けんかもするけれど、大変優しい。
食べられない苦労もなく、こうして仕事をやめても困らない。
ひとえに夫のおかげだし、それぞれが頑張っている息子たちのおかげだ。
自分のできることをして、病気があっても、そのことでさえ楽しみに変えるくらいの気力はある。
私が、笑って強気でいることが、ボケることのない秘訣かもしれない。
歳を取れば、老いるのは当たり前、それを受け入れ、ありのままの自分で、自分の人生をまだまだ楽しく生きていこうと思う。