自分を振り返って見ると、私は少し偏っているのかそれとも自分らしく生きてきたのか
私は、年齢にとらわれないことは大切だと思う。確かに、年齢とともに体力は落ちる。だけど、それに伴って「年だからを言い訳にしたら」何もできないと思う。
老春時代を満足に生きるため、考えること
年齢にとらわれないことはとても大切。年齢にとらわれると、やりたいことをあきらめたり、冒険ができなくなる。
腎臓病を持っているので、食事制限があるから、飲み会や食事会は苦手である。食べる楽しみはがないわけではない。大好きなソフトクリームもたこ焼きも、焼き肉だって食べる。ただ、気を使われたりするのが嫌だし、大勢で食べに行ったり、割り勘で食べに行ったりはしたくない。割り勘なんて、量を食べないし、飲まないし絶対に損だから嫌だ。食べる楽しみは、自分の好きなものを自分の体調に合わせて食べる。だから、一人で食べることが楽で楽しい。
私にとって「一人時間」は楽で楽しい時間である。
しかし、他人と接触するのが嫌いなわけではない。刺激になる人たちといるのは心地よい。ただ、そんな「人」に巡り合えるかというと皆無。だから、読書をしたり、映画を見たりすることが楽しい時間になる。
私は、自分の思う事は割としっかり発言するし、行動もする。そうすると、人さまからなぜか「非常に強いイメージ」に見えるようである。自分の考えていることや感じていることを、他人に言うと強い人、あの人ははっきりものをいう攻撃的な人と影口?誉め言葉?が聞かれる。私は、陰でこそこそいう人たちとは付き合わない。仕事では、仕事以外の話はしない。
私は、人に後ろ指をさされるようなことはしない。だけれども。人というものは、自分が発言したことがわからなければ、好き勝手をいう。匿名なんて、本当に何を言っているのだろうと思う。直接言えない、相手の目を見て言えないのなら他人を傷つけるような発言は控えるべきだと思う。
やくざや悪人よりも悪意のない普通の人間の方が怖いし汚いと思うときがある。
知らないうちに、他人を傷つけることがある。それは、相手に感情があり、言葉が耳に入ってきた時点で、自分にとって善か悪かを、感情で判断する。同じことを言っても、相手のことが嫌いか好きかで、判断が始まっており、嫌いな人の言葉は、「悪」と聞いてしまう。そんなつもりで言っていないのに、誤解され関係がうまくいかない。人間関係は難しい。
煩わしい人間関係から離れるためにも、他人との付き合いは、仕事仲間は勤務場所だけ。友人は、自分からはコンタクトは取らない。そもそも、友人と話すことがない。子育てはその人の生活の一部だから、私とは生活スタイルも違うから、育て方も違う。友人の悩みは聞いても、私には悩みを友人に相談することがない。
悩みって何だと思う?悩み自分が勝手に作っているものだと思う。
夫に悩みがあるとした、その夫を選んだのは本人だし、いやならわかれればよいと思うし、行動もせずに考えもせずに、ぐちぐち言っても仕方がない。
悩んでも愚痴を言っても、最後は自分が決断しないといけないのだから。
他人に話をして、気が収まるなら話をすればよいだろうけれど、他人は、また言っているわと人ごとである。
もったいない、夫の悪口を言う暇があるなら自分の好きなことを探したり、楽しいことを考える方が良いと思う。
一人の時間の思う事を、こうしてブログにするのも、自分が見えて楽しい。
不特定多数の人たちが見てくれて、理解してくれる人、否定する人、色々だろうけれど、自分の人生を楽しく満足する生活のヒントになればと思う。
友人がいないと寂しくないかという人がいるけれど、学生時代には、親友もいたし、クラブ活動もしたし寮生活をしているときは、同世代の寮仲間とワイワイ。
その時、その時に他人との交わりはある生活を送ってきた。この年になって、友人というけれど、悩みはなくなり、若い頃のようにがむしゃらにならずに、生きていけるようになると、自分の事だけを見てよいのではないだろうか。若い頃は、友人という言葉に、依存し嫉妬し反発し誰かと、一緒にいることで安心していたのかもしれない。なぜって、子供の頃は、集団生活が主だから。
一人の時間は、楽しい、誰に遠慮することもなく自分だけの世界で自分の思い通りの夢ややりたいことをやれるから。