動画で、「北九州の監禁殺人事件」のノンフィクションを見た。
殺人犯の息子で、生きるのに大変な思いをしている方。
この話を見た時に、本当に、安倍元総理の狙撃犯の勝手な思いに腹が立つ。
この息子さんは、両親の愛情に接することなく、養護施設で暮らし自分は何も悪いことをしていないのに苦しい思いをして、それでも、ちゃんと生きている。
無国籍のために、学校にも両親から学校に通わせてもらえず、保護されて始まて、小学校に通う。
私の両親も、私たち子どもを、国に届けていなく、末の妹を養子に出すために、国に届けた。無国籍だった。幽霊国民。
そのため姉は、当時もう7歳を過ぎており、小学校に入学したのは、一年遅れだ。
私と姉は、2歳違いなのに、何で学年は、一学年上なのだろうと思っていた。
今でも、妹を、養子に出さなければ、私たちは戸籍がなかったのだろうかと。
末の妹は、7月が誕生日。私たちが、戸籍に入ったのは、6月6日だ。
妹は、生れて、一歳で養子に出された。この時に、私のすぐ下の妹も。
後日成長して、妹たちにあったけれど、すぐ下の妹とは私が比較的に、妹の交流を覚えていたので、姉妹であるという感覚は合った。
末の妹は、赤ちゃんだったこともあり、生きてきた生活も違い、二度あったがその後の交流はない。
この、北九州の事件の子供は養護施設で、大人になっているけれど、世間や大人を信じられなったと。
私と姉も、養護施設に入っていたことがある。二か所の養護施設で育った。
理由は、当時母が家出をして、探すためだったと聞いている。養護施設から、引き取られたら、妹が養子に出された。
養護施設に入ったのが、妹が養子に出された後なのか先のの分からない。
ただ、父親が車で、遠ざかるのを姉と一緒に、鉄格子の塀から泣いて追いかけた記憶はある。
私自身も、この人と同じで、大人になったらと真面目にぐれもせずに大人になった。
なのに、この狙撃犯は、何で、一応は、普通に学校に行かせてもらい、周りの人間いも恵まれているのに、母親にこだわり、破産したからと他人を恨み、人を殺さなければいけないのか。
私からすれば、母親から自立できず、「ママ、こっちを見て、僕を見て」と甘えているガキ。図体だけが大人になり、恨みつらみを募らせ、エゴの塊だ。
他人の命を奪う、それも、直接の原因の母親を殺せないから。
最低の人間だ。
家庭環境が、悪かろうが、何でと、自分に投げかけ、誰もいない誰も助けてくれない生活を過ごしてきた人間は、強くなるしかない。
自分がしたことではないのに、重い十字架を背負い続けて生きていく。
彼は、周りの人に恵まれていると感謝をしている。大人を信用できず、社会の冷酷さにさらされてきたというのにだ。
私は、たまたま、殺人者の子供ではなかったけれど、母の悪しき性格が自分の中にないかと、おびえるときがある。
うちの母、男と別れるとなると気違いのようになる。普段の母のイメージから想像もできないだろう。
浮気がばれたら開き直り、死ねばいいのだろうと父親の前で、自分の頭に椅子を叩きつけて、血だらけに。
ダラダラと流れる血の顔はトラウマになる。
若い男と別れる話になった時は、自分の腹を包丁で刺し、私たち子どもに連絡が来た。
もう、考えられない。気違いだ。理解もできない。
父親が「色気違いだから」と子供の頃に言われて事が、大人になって、浮かぶ。子供頃は、(お義父さんは何を言っているのか)と思っていたが。
そして私が一番恐れていたのが、母の窃盗癖だ。
母は、娘のお金でも、財布から抜く。
私が交通事故で、入院していた時は友人の、お見舞いのお金を、預かったのに、私に渡さなかった。友人が、帰るときに母にお見舞いを渡したと言っていたから。
そして、私の家に着たら、貴金属や、お金を盗んで帰る。
二番目の夫が、「お義母さん、あまり家の中でごそごそしないようにしてもらって」
「何で?」
「う~ん、ポケットのお金が無くなる」
母は、親戚だろうが、娘であろうがお構いなしだ。
母のことは、姉と話をした。姉からも、被害があると。そして、衝撃だったのは、祖母や叔母も母の、窃盗癖を知っていたと。
祖父が、かなり、折檻をしたりしていたが治らなかったと。
だから私は、自分にもその血が流れているのかと。
そのためか、男性と付き合うのが嫌だったことや、お金に対して貸し借りをするのも、お金を扱うことは嫌だった。
この歳まで、母の様な窃盗癖も色恋沙汰でおかしくなることもない。
反対にまじめすぎるかもしれない。
子供は、大人になっても母親とのつながりは多いが、私は、中学を卒業してから、寮に入り高校に通い、看護師になったので、早くから両親とはなれたので、両親に対する感情はあまりない。
私はお金にだらしがない人はうそつきだと思ってしまう傾向がある。
反面教師なのだ。両親が。
父親も、大人になって知ったことから詐欺まがいのことをしていたようだから。
父親は、中学生になった夏の頃から家にいなくなった。
だから、そのころから、父親との関係は、薄いものだった。
当時、やくざっぽい人たちが家に来ていた。
母は「家にいないどこに行ったかわからない」と言っていた。
実際の所私たち子ども、父親の職業もわからないし、いつも夜出かけて、ホステスをしていた母親と昼間寝ていたような人だった。
私は、母時々普通に見えない時があったので、目が怖い、何というか異常な目をしている時があったから。
中学三年生の時に、包丁で追いかけられたことがある、トイレに逃げ込んだけど。
他人から見ると奇麗で優しい人に見えるけれど、心というか精神状態が悪いと、とんでもないことをする人だった。
私は、幼少期の頃から、親の頼み事は「はい」「はい」と聞く子だったので、扱いやすかったと思う。
自分自身何も親のことがわからないころは、大人になって親孝行をしよう、働いて両親を楽にさせてあげようと思っていた。
でも、成長するにつけて、社会に出て、両親はおかしいと思うようになった。
自分は、貧しくてもわがままも言わず、学校も奨学金が出る所を選び、親に迷惑をかけないようにしてきた。
その反動で、親のしていることが見えてきてどんどん離れていった。
子供を見てもらうときにはお金を渡したし、借りは作らなかった。
自分が母親になった時に、本当に、母は親をやってないと。
恨みとかはないけれど、母に対してはこの人のように人生を送れる人は幸せかもと思った。
生きたいように生きているのだから。
とある社長に「君のお母さんのように、生きれたら人生は幸せだろうね」と言われたことがある。
感謝はしてほしいと姉妹でいうことは、私たち子どもが誰もぐれずに大人になったことを。
親との関係は、乗り越えないといけない大きな人間関係の問題かもしれない。
生まれて、一番関わり影響を受けるのが親だから。
だけど、自分勝手な親に固執し、依存してしまったら、自分の人生を歩けない。
乗り越えていかないといけない親は、乗り越えていくべきだ。
あの親だからと言われないようにと子供の頃から、片意地を張って生きてきた。
大人を信用しないで、それでも、大人が作る社会で生きないといけないのだから。
子供としてできる防衛は、
逆らわない事、逃げるチャンスがあれば逃げること。素直で従順でいること。
大人になったらと希望を捨てない事。
私はこうして生きてきたから。
自分が生まれた生きていることが一番の奇跡だと信じること。
神様に感謝をすることだと思っている。
しかし、小さな子供が、大人なったらと考えることができるのは難しいかもしれない。
だって、子供は、どんな時でも幼少期は、親がすべてだから。