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私のこと(エンディングノートその1)

エンディングノートを書くことで、自分のこれまでを振り返る

インターネットでダウンロードしたものをつかっている。連絡先があるのだけれど、「友人」で考えてしまっている。

「友人」はいないわけではないけれど、自分が死んだときに連絡をしてもらいたいと思わない。

私にとって「友人」とは?

親友はいるけれど、自分から連絡をとる事がない。他人から見ると、大変社交的に見え、友人もたくさんいるように見えるようである。

友人と知人の区別がないように思う。私が亡くなって、連絡もらって何をするのだろう。普段いつもいつも、あっているわけではないし、連絡をする必要があるのだろうか。

50代の頃、友人が癌で亡くなった。職場で知り合った人だけど、私が職場をやめたら、プライベートでも付き合いたいと思っていた人だった。私は、看護師をしているときには、職場の人とはプライベートでのお付き合いはしないと決めていた。親しくなるといいたいことも言えないから。結構、心が弱いのかもしれない。仕事とプライベートをごちゃごちゃにする人が、多いせいもある。仕事は仕事。プライベートでつるむと同僚や職場の悪口の言い合いになって、仕事が楽しくなくなるという事もあったから。彼女とは、なんだかんだといいながら、仕事場では本当に良い同僚で信頼のできる人だった。

もし彼女が生きていたら、私が亡くなったときには、お線香をあげてほしいと思う。

彼女がなくなる当日の夜20時まで意識のない彼女の手を握っていた。面会時間が来たので「また明日ね」と。明日が来ないことはわかっていたけれど。

後悔のない人生と思って生きてきたけれど、彼女のことを考えると、なんで職場にいるときに、プライベートでも付き合っていればよかったと思う。

彼女のことは、亡くなったけれども、今も私の中では笑顔の彼女がいる。意識のない彼女でも苦しさと痛みに耐えていた彼女ではなく、笑顔の彼女。

30年以上親しくしている人がいるけれども、亡くなって彼女に連絡をしてほしいかといえば別にいいのではと思っている。私から、彼女に連絡をすることがないことがあるのかもしれない。

この二人のことで何が違うかというと、私を利用したという事かもしれない。私は、本当の友人なら困っていれば力になろうと思う。友人に「嘘をつかせてはいけない」と思う。本当に大切な友人なら、利用してはいけないと思う。この友人を信じることができない。う~ん、ちょっとちがうけれど、親しき中にも礼儀ありが欠けた人になってしまったことかも。

私の考えている人生の終わりは、家族に「さようなら」ができればよいだけ。子供たちに出会えたことが、私の人生で一番の幸せだから。私が亡くなって心から、泣いてくれたり、忘れないで覚えていてくれるのは、子供たちだとおもうから。

友人欄には、誰も書く人がいないと気づいてしまった。

家族葬でよい。