社会に出て思うことに、出る杭は打たれるということ。
会社にとって、仕事のできる人間は必要である。
しかし、声を上げてはいけないのである。会社がよくなるようにと思っても、
意見を言ってはいけないのである。
勤めているから、自分の会社がよくなればと思っても、そんなことは会社は望んでいない。
会社は、利益が上がればよいのである。
中小企業の管理者のきれいごとには、あきれる。
できないことをさももっともらしく言う。
若いころ、きれいごとの裏がわからず、そうか、従業員も一緒に会社を作っていくんだなんて思っていた。
会社の目標、指針があり、そのことを頭に仕事を頑張っていたが、ある日気づいた。
違う、きれいごとだから、本気にしてはいけない。建前だということ。
思うことや評価こうすればなどは、管理者だけ。職員は働いていればよいのだ。
意見を言う人間は、疎まれる。叩かれる。
実力を認めて、努力をしている人間を引き上げたり評価をしてくれる職場は少ない。
会社にとって、ねじのような人がたくさんいるのがよいのである。
悪環境でも、黙って働く人間。文句があっても何も言わず。
私は、その人たちをある意味尊敬する。長い目で見れば。結局のところ良い結果につながる気がするから。
まじめで、黙々と仕事をし、負もなく可もなくで、時の流れに身をまかせている。強い人たちだと思う。本当の意味で勝者ではないかと思う。
私は、雇う側も、雇われる側も、対等だと思っていたが、雇う側は、そんなことは思っていない。変わりはいる、やめたければやめればよいスタンス。
経営者は、お金がもうかればよいのである。人も、道具である。部品である。
人間は、感情があるから、きれいごと見てくれに騙される。
騙されない人は、生活が懸かっている人である。働いて家族を養わない人。職場に夢や理想を求めない人。
私は、今生活が懸かっていない。夫がいて、子供も成人してそれぞれに、自立しているから。
だから、今まで以上に物申す、言いたいことを言う。
今の職場でも、感じることだけど、不満があっても黙って働いている。何が楽しいのかと思う。
生きているのだから、仕事も楽しくできることが最高だとおもうのだけれど。
しかし、出る杭は打たれるとおもう。
めんどくさいと思うけれど、今いる職場に波紋を投げているから。
施設長に扱いにくい人間と思われている。
人間関係において、職場の上司に目を付けられないようにするには、出る杭にならないことである。
それが正しいかどうかは自分自信が評価するしかない。
職場の改善というが、そんなことは絵空事である。
ただ、出る杭は打たれないとすれば、直属の上司信頼できる人間であるかということかもしれない。