還暦を超えて、体を壊し(ちょっと大げさ)大好きだった看護師の仕事をリタイヤ。
家にいて、ボケ防止のため、過去のことを思い返し、ブログにアップしている。
私のブログを見た人が、昔の人はこんな感じだったとか、今も昔も人生は一緒なんだと、人が生きることは、変わらないと思ってくれたらと。
何だけど、なんか、子供の話とか人間関係の話をしていると、暗いというか重い気がする。
どんなことがあっても自分の人生を、見直す時間が来た時は、長い時間がたっていると思う。
その時にきっと、頑張った自分を見ること感じることができるはずだから、辛いことがあっても、面白くなくても、生きることが、大切で、それだけでも幸せ。
それなのに、私の話は、元気にならないな。
自分の自慢話か、私ってこんなに、可愛そうだったのってか。
あ~あ~、文才がないな。
でも、落ち込んでいても仕方がない。
いっぱい書いていれば、何かを、感じてくれる人もいるだろうし、いなくても自己満足でもいいか。
最近、「死」について、考えてみることが多い。
私は、自殺をしたりしないでほしい、虐待を受けたりしても耐えてほしい。
できれば逃げてほしい。
あきらめないでほしい。
生きて自分の人生の意味を、自分を大切にしてほしい。
死ぬほどの勇気があるなら生きてほしい。
死ぬほどの勇気がないほうがいい。
若い人の死は、悔しく思う。もったいないと思う。
死ぬほどの絶望ってあるのだろうか。
精神病院でうつ病の患者から、「死ねという声が聞こえる。死にたくない。看護師さん助けて。」と。
その患者は、その言葉を私に訴えた翌日の朝、自殺していた。
あり得ない方法で。
今も、忘れない。あの患者の「看護師さん、助けて」の訴え。
精神科では、見守り強化の部屋がある。モニターがついている部屋だ。
だけど、死角の時間が必ずある。それは、人の少ない時間。就業時間が始まっていない、夜勤者だけしかいない、見守りができない時間。
不可抗力の時間。
朝の食事時間は、食事介助などで、手が取られ、時間通りの見守りが精一杯。
その朝の夜勤者を責めることはできない。
わかってはいたけれど、日勤に出勤して、ショックだった。
そう、精神患者とかかわると、「死」ということに、凄く近いことがある。
看護師をしていると、「死」は短だ。
「生きてほしい」と願う人たちと沢山かかわった。
だから、どんなことがあっても生きてほしい。
生きていることで、きっと、なぜ自分が生きているのかわかるから。
私が想像もできない人生を、生きている人もいるだろう。
死んだほうが楽だと思うことも。
私は、このようなことを考えるのは、かかわったことはないけれど、相手の人は知らない他人だけど、それでも、ドラマなどで、身近に感じている人がなくなることが多いからだろう。
死ななくても必ず、「死」は訪れるのだから。
即死ならともかく、意識があった時に、何を思う。
「死にたくない」と思わないのだろうか。
飛行機事故や船の事故で亡くなる人達、神風特攻隊の手紙などを読んだときに、覚悟を持って「死」を迎える人。その人たちは最後まで、生きたと思う。
生きたいという気持ちも強い、だからこそ、生きているものに何かを伝えている。残された人の幸せを。
今、生きている人に言いたい。
誰かに、自分の人生の重みを、背負わせないで。
他人に危害を加える人に言いたい。あなたの家族にあなたの人生で、辛い思いをさせないで。
人生は、人として生きることなのだと思う。
思い出してほしい。
あなたを知っている人が、必ず、あなたの死を知った時に、なぜと思う。
私自身も、小学生の同級生が、亡くなった話を聞いた時から、なぜと思っている。一緒に、遊んだこともない男の子だったけれど。
忘れない。今でもこの年になっても、なぜと思う。
交通事故などの事故で、亡くなった場合、若さや早いと思うけれども、なぜと思う重さは、抱えない。ご家族は違うだろうけれど。
私のように、還暦を迎えて、生きる時間が、ある程度わかる歳になると、心から思う、せめて、私の歳を超えるまで生きてと。