子供の頃の話。
隣に、三人の兄弟が住んでいた。その兄弟とは私たち姉妹は同い年だった。
私は、小学3~4年生だった。
となりの兄弟は、お姉さんと年が離れていて、お姉さんは時々帰ってくるだけだった。
そして、お父さんは酒飲みで、乱暴な人だった。いつも、お隣からは、大きな怒鳴り声が聞こえていた。
それでも、そのお父さんは、私たち三人の子供たちには優しかった。
家は、テレビがなくなることがあった、父が質屋に持っていくから。
私の子供の頃は、テレビのある家庭が、まだ少なかった。私が小学6年生の頃は当たり前になっていたけど。
東京オリンピックの頃に、すごく、テレビを買う家が多くなったころだ。
それだから、まだ、テレビは質屋さんに持っていくとお金になった。高額商品と言うことかな。
私たちは、そのために、お隣にテレビを見せてもらいに行った。お隣のおじさんは、私たちがいるときはにこにこしており、怖くなかった。
さて、その子たちがある日、お父さんから怒鳴られる様子が、聞こえて、私は、外に出た。(暴力をふるう、今でいうところの虐待かな)
まさに、兄弟が、家から追い出されている所だった。(逃げ出している)
私は何となく、一緒に近所の保育所の砂場までい一緒に行った。
このことをすごく鮮明に覚えているのは、小学生の私にとって、その兄の言った言葉が不思議で仕方がなかったからだ。
「もう、生きていてもしようがない、なんで、こんな星の元に生まれたんだ」
子供心に、なんか芝居かかっている。何でそんなことを言うのかわからない。
全然、同情できなかった。
私は、そのころ時々食事が食べられないこともあったし、それでも、学校に行ったら給食があるし、先生もいるし、友達もいる。毒親でも、親のことが大好きだったから。
今思うと、母は親らしいことはしなかったけど、怒ることはしない人だった。ただ単に、無関心というか、子供のことを考えていなかったのだろう。
父も、家にほとんどいなかったので、これまた、自分のことばかりの人だったのだろう。ただ、両親からは、暴力は受けたことがない。
だから、ひもじいことも貧乏であることも受け入れていられたのだと思う。
幼少期、学校に上がる前までは、祖父母たちと一緒に暮らしていたので、祖母が、私たちの世話をしていてくれていたので、ひもじい思いも、辛い思いもしていないのが、良かったのだろうと思う。
生まれた時から両親だけだったら、どうなっていたかわからないけど。
死ぬと言うことは考えられなかった。
それよりも、早く大人になって、お母さんたちに親孝行したいと思っていたから。生きるという力になっていたと思う。
子供って言うのは、本当は親がいい加減で、出来損ないなのに、わからずに、親を喜ばせることを一生懸命考えるものだ。
だから、親のせいで死にたいという彼の言葉は理解ができなかった。
貧乏なのは、何が原因なのか分からない、子供の目からすれば、父がいないのは仕事に行っているからだと思っていたし、母親はホステスをして、一生懸命に仕事をしていると思っていたから。
大人になって違う、子供を育てて違うと色々分かったけれど。
子供の心は素直だ。疑うことをしない、親は、無条件に子供の中では、すべてだ。
親に、嫌われることなど考えられない。
自分の環境に何の疑問も思わない。
私が欲のない子だったのか、馬鹿だったのかと思うけれど。
子供の頃は、大人の事情なんて分からない。
大人になり、母親になり自分の親に、迷惑をかけられることで、私の親は、いい加減な人だったと。
大人になり、この歳まで生きてこられて思うことは、隣の家の子の様な考えを持たない自分でよかったと。
そのおかげで、親を怨むことも他人を恨むこともなく、客観的に他人を見ることができる人間になった。
人は人。
自分の人生は自分の物。
私の人生を歩くのは私だけ。
どんなことが起きても、自分が選んで生きていく。他人に左右されない。
言いたい奴には言わせておけ。そんな奴こそ、心が弱い。
妬みや、他人をさげすまないと生きていけない極悪人。
他人と競争するのは生きる糧になるけれど、戦うのは自分自身とだ。
心の中は自分が王様。
誰にも侵されない自分の世界を持とう。
私は、普通のおばさんだけど(還暦過ぎているけど、おばあさんという自覚がない)後悔のない人生を歩んでいると思っている。
感情の起伏が、結構あるので怒ると物事を壊しかねない勢いで、行動する欠点にはいまだに悩ませられているけど、自分が大好きだ。