宗教と縁の話 ――合わないけれど否定しないという距離
最近、エホバの証人の若い男性と年配の女性が訪ねてくるようになった。
最初は少し驚いたけれど、話してみるととても礼儀正しく、真面目な人だった。
私は宗教団体に入るつもりはない。
これははっきり伝えている。
ただ、それでも会話が続いているのは、
相手を説得するためでも、私が説得されるためでもなく、
ただ「人として話している」からだと思う。
私は子どもの頃、日曜学校に通ったことがある。
聖書の細かな物語は覚えていないけれど、
神様はそばにいてくれるという安心感と、
隣人を愛しなさいという言葉だけが残っている。
一方で、祖母は別の宗教を信じていた。
子ども心に疑問だった。
どうして神様を信じている人同士が、
相手の神様を否定するのだろうと。
大人になってから、私は
信仰は団体の中にあるものではなく、
自分の中にあるものだと感じるようになった。
神様を見たことはない。
男か女かと聞かれても分からない。
私にとって神様は人格というより、
見えないけれど確かに感じる働きのようなものだからだ。
だから祈ることもほとんどない。
ただ、感謝するときに手を合わせるだけである。
エホバの証人の人は、信仰によって生き方がはっきりしている。
それはきっと、迷いの多い人生に軸を与えているのだろう。
信仰に出会って救われたという人もいる。
それは奇跡ではなく、
自分の悩みの意味づけを見つけた瞬間なのだと思う。
だから私は彼らを否定しない。
その人がそれによって人生を生きられるなら、
それは大切なきっかけなのだろうから。
ただ、私には合わない。
団体になれば必ずルールが生まれ、
正しさが決まる。
私にはそれが息苦しい。
私は、人が幸せであるかどうかは
信じているものよりも、
今ここに生きていることを受け取れるかどうかにある気がしている。
命があることそのものが、すでに与えられているもの。
だから感謝があるかどうかで、
その人の歩き方は変わっていくように見える。
強い言葉は、支えにもなるし、刃にもなる。
信仰も同じで、使い方によって人を自由にも不自由にもする。
私と彼らは相いれない。
けれど、それは否定する理由にはならない。
道が違うだけで、
それぞれが自分の人生を歩いているだけなのだと思う。
