私は、1人になりたいとよく思う。
特に、この歳になってからだ。
今の旦那との離婚したいという言葉を毎月口にしてしまう。
時分の事を考えたい、他人の事に気を使いたくないというのが本音。
旦那は、めんどくさい。
日常的なこと自分ルールはできるけど、他のことがからっきしダメ。
一番いやなことは、他人に対しての考え方が嫌いだ。
まず、とにかくケチ。
私に、何かすることも買うこともない。
世の奥さんは、買い物に行っても何かを買うときも、まず、家族の物で、自分の物は買いに行ったとしても、時分の物を買わずに、家族の物を買う。
私も、そうだ。
家計費をもらっていないから、自分のお金だ。
それでも、あっ、これ旦那にいいかも、これ、食べさせたあげたいとか。
いい奥さんでいたいとかないし、いいよに見られたいと言うこともない。
ただ、できる人ができることをやって、補い合うことで、上手くいくと思ってきた。
二度目の時に、何でもかんでも、自分でやって体をを壊してしまった。
だから、無理せずにと思っていることもある。
人がいると、性格なのだろう気を使うのだ。
美味しものを食べさせてあげようとか、喜んでくれるものとか考えて家事をする。
三度目の結婚で、言いたいことを言おう、我慢せずに自分で何もかもやろうとしないと決めていたのだけど。
これが、相手によるのだと痛感している。
今の旦那は子供なのだ。時分がしたい事だけを自分のルールの中でする。
他人い大してこんなことをしたら喜ぶと考えないのだ。
手伝うにしても、自分がしたくないことはしない。
看護師なのに、段取りとかできないことはやれるように努力する事。
わからないことは自分で調べる。
教えてもらったことは忘れない。
してもらったことは感謝する。
兎に角、自分ができない事を、私がしてあげることが多いのだが、できないくせに偉そうで、「ありがとう」という感謝の気持ちもない。
そう、子供が母親にしてもらうのが当たり前のように、感謝をしないのと同じだ。
子供なら仕方がないかもだけど(私の子供は母親にでもありがとうをいうけど)私は赤の他人だし、母親でもない。
怒ると、二階に上がりものを言わず無視だ。
時々、この人の親はちゃんと躾をしていないのか、感謝をすることを教えていないのかと思う。
あいさつもできない。
夫婦であっても、おはようとか日常のあいさつはするべきだと何度も言ってきて、やっと少しは言えるようになったが、其れも普通のあいさつではない。「おはよう」と言えない、ふざけた言葉だ。まあ、起きてきたら、声をかけるのがあいさつだと認識できたと言うことで、許している。
夜寝るときもなのだが、私は先に寝るときは、「先に寝るね。お休み」というのだが、すーっといつの間にかいなくなっている。あれっ、トイレかなと思ったりして、リビングでいるけれど、二階に上がったら、寝ている。
万事がこの調子だ。
私は家族間でもあいさつをしないと、社会に出たら、あいさつができないと思っているから、ちゃんと子供たちに、教えてきた。(不登校で父親のところのいた子供はいつの間にか、あいさつがでいない子になっていたけど)
常識的なことが、できない人なのだ。
できないことを、私がするのはいい、だけど、こうだからしなさい、していないとダメだというのに、あーだ―こうだと言い返してきてしない。結果、後で、私が時間を割いてしなければいけない。
めんどくさいのだ。
子供ならわかるけど、もう50歳になった半世紀生きてきた人間なの、自分のできないこと苦手なことを人任せにして、偉そうに言うこの旦那が嫌で嫌で仕方がない。
そんな気持ちを、落ち着かせ、人間だれしもいいところはある。
っこの人は言えばわかるのだからと、今まで来たけど、さすがに学習しないのはどうなのだろうと思う。
と言っても、落ち着いて思うことは、この人は学習できないのだろうと思う。なんて言うのか学習障害があるのだろう。
まあ、病気と言うことののだろう。
だけど、仕事をちゃんとやって、自分のこともできるので、(掃除、洗濯)家事はできるのだ。
だから、私が居なくても、生活ができるのだから、離婚してくれても良いと思うのだけど。
離婚したいと言ったら、鬼のようになる。まるで、気違いだ。
以前は、床にたたきつけられた理、首を絞められたりしたが、学習したのか、それを続けると本当に離婚されると思ったのだろう最近は、物を壊す。
物を壊すのは、相手を怖がらせるためなら、あるかもしれないけれど私には無駄だ。
興奮すると手が付けられない状態になるが、まだ、最後の一線は、守っているようだ。
こうして、文字にして自分の気持ちを見る。
ストレスにならないように吐き出して、自分の気持ちを切り替えるようにするのだけど、結局のところ、相手が変わらなくいつも同じパターンになるので、どうしたものかと考えている。
時間をかけて、もう歳なのだから生きやすい人生を歩くことだと思う。