老春時代を生きている私。
自分の生きてきた人生を、認めること。
最近、思うことは、慢性腎不全になって、で来ないことが多くなったことで、若い頃のこと、できていた頃のことを、考えると、「私ってよく頑張っていたなぁ」と思う。
貧乏で、十分な学用品も買ってもらえず、食べるものもなくてひもじい思いをした子供の頃。
その幼少時代の経験から、食べられる生活、ほしいものを人並みに買える生活を望んで頑張って生きた私。
根なし草の様な両親の元では、自分のことは自分で守らないといけないと。
他人の信頼は自分で作るしかないと。
あの親の子供だからと言われないように。
おかげで、他人には親切に優しく、いつも笑顔で元気よく後、身についた。
貧乏だからと卑屈になることなく、環境に負けることななく大人になった。
母親になり、自分と同じ思いだけは子供にさせたくないと、頑張った。
社会で生きることを頑張り、他人に迷惑をかけないことを念頭に、生きてきた・
誰も頼らず、泣き言を言わず、前だけを見ていた気がする。
そんな私が還暦を過ぎて、持病を抱えて、のんびり生きている。
今のこの時間は、神様からのご褒美だと思っている・
8月に体調を壊した時は、このまま腎臓が悪化して、透析になるのでは、寿命が短くなるのではと、あるいは死ぬのではないかとさえ思った。
まぁ、粘り強い私なので無事に復活した(良かった。)
ゆっくりしていると、自分の人生を振り返る。
頑張ったと自分で認める中で、何を頑張ったのか何を、達成できたのかと思う。
それは、食べられ生活をしていない事、普通に自分が欲しものを買える自由。
他人にさえ迷惑をかけないのであれば、他人に関わらなくてもよい鋳物環境。
社会というか仕事を開いていた頃は鎧をかぶっているようなもんだった。
他人を傷つけて生きたいる人も社会にはいた。
学校、会社、と集団が集まる場所は、善悪がはこびる場所だ。
被害者ぶって他人を傷つけるもの、権力をかざして他人を傷つけるもの。
そんな中で、子供を守る育てることが私の一番大切なことだった。
子供時代、どうしようもないことで苦労させないように、親として守ってあげることは、幸せな親でいることだった。
私はいつも嘘をつかないと言うことを守っていた。親を信用できない子は他人を信用できないと思っていたから。
これは自分がそうだから。
親がいい加減で嘘つきで、自分のことしか考えない親だった。それが反面教師となって、正直な親であろうとした。嘘は子供を傷つけるとわかっているから。
離婚をする時もきちんと話をした。自分の人生を大切にしているからの選択だと。
両親がそろっているのは当たり前だけど、人間として向き合えない尊敬できないことは私にとっては、一緒にいる意味がない。
人として、自分を人生を大切にしていることも子供に教えると言うことを、大切にしてきた。
今の自分の立ち位置に、満足している。
子供の頃、学用品を買ってもらえなくて、「忘れました」と言わななければいけなかったみじめな私。だからといって決して、親にわがままを言ったことはなかった。
2歳年上の姉は、学用品もちゃんと買ったもらっていた、給食費もちゃんと持たせてもらっていた。私が、親に差別をされていたのではなくて、単にお金がなくて、だけど姉は、きかない人だったから、我慢する私にお鉢が回ってきていた。これは結構つらいものだった。
親にしてみれば、我慢をして何も言わない子は助かったのだろう。
そんな生活から、自分が働きだしたら、抜け出せた。
働いたら自分でほしいものが買えるから。
父や母は相変わらずな生活だけど、私は両親や姉弟とかかわらない生活をしていた。寮に入っていたから。
生きることは、自分が強くなることだ。
この歳になって、自分の人生は幸せだと思っている。
他人とかかわらなければトラブルもない。
私はは本来お節介な人間だ。だから困っている人を見たり相談されると力になろうとするし、何かできることはないかと考える。
だけど、経験上から、普通に生きていれば困ることはない。
困っている人は本当に困っているわけではないと思えるようになった。
そして、他人のことを思ってあげてもその人の意思にそぐわなければ、手ひどい思いをさせられる。
「強い人だ」と言われるが強いわけではない、他人い依存せず、迷惑をかけないようにしているだけだ。
迷惑をかけないと言うことは、不快な思いをさせないことも入っている。
だから、他人のことを詮索しない。
私が必要であれば、力を貸すが、私自身は、他人に力を借りることはない。
私は、なぜかわからないけれど、弱い人間や、利用しようとする人が集まってくようだ。多分、強い人というイメージがあるからかも知れない。
そう、ずるい人間が、偽善者を装って、なんども、おひとよしだから、力を貸そうとする。
だから他人とかかわるときは、自分がしたいからしていると思うことにしている。
人は喉元を過ぎればその時のことを忘れるだから、何も期待しない。望まない。
人付き合いに関しては、親を信じられない環境下で育ったため、他人はもっと信じられないという感覚がある。特に子供の頃は大人を信じない子供だった、顔にも態度にも出さなかったけれど。
だから、周囲の大人は私を素直で家の手伝いをするいい子として見ていた。
ブログを書いたり、色々な人のツイッターを見たりすることで、日々を過ごす今の時間が貴重だ。
若いころと違って、ゆったりと流れていく時間。
必死になって、強い自分でいる必要がない、自分のことだけを考えて生きている時間。
家族の為、親の為、人の為、そんなもので縛られない自分がいることに、最近気づいた。
人とのかかわりがなくても平気な自分がいるし、下手に関わると、嫌な思いをするだけで何の得にもならない。
ただ寂しいくないのはそれなりの訳もある。
それは子供達。
自分の人生の中で、子供達がとても大切で、生きる糧だった。育てること、母親でいることに頑張れたこと。これが今の私の幸せをくれている。
子供たちが、私のことを母親として大切に思っていることが感じられるから。
頑張ってよかった。この子たちの母親に慣れてよかったと思える自分がいる。
自分の今までの人生で頑張ってきたことの結果が、幸せにつながっていると実感。
だから今は、ゆっくりと何かを見つけて進みたい。
そして人生は自分で自分を認めてあげることだと思う。褒めてあげてもいいじゃないか。
頑張って、生きてきたこと他人に迷惑をかけずに頑張ってきた人生を。