人間不信。
そんなに意識をして、大人になったわけではないのだが。
還暦を過ぎて、自分の生きてきた状況、今の自分の物の考え方、見方を考えると、人間不信のような気がする。
そして、この人間不信は、子供の頃の境遇が、大きくかかわっていると思う。
この人間不信が、嫌だとか、不幸とおもっているわけではなく。
自分の今の状況を、考えた時に、気づいたという感じなのである。
さて、どうしてそんなことを書いているかというと、人間不信って、ある意味自由なような気がするから。
昔からなのだけど、友人との付き合いを、特にしようという気がない。
子供の頃から、母が家事をしない人だったので、弟の世話を含め、食事、掃除、洗濯と、学校から帰ったら、していた。
自分の家が普通の家庭でなく、貧乏で親の仕事が、夜の仕事だったり、父親が職を転々としていたりと、まあ、俗にいう、低層階級。
子供心に、他の友人の親が、私の家庭に対して良い印象を持っていないことが伝わってきた。そうすると、遊びにいきずらくなる。
おかげさまで、小学、中学と友人には恵まれており、私の家庭環境を気にするような友人はいなかった。(親が嫌がっているからと、私とはなれる友人はいなかった)
自分がすんでいる地域の大人は、私のことはよく褒めてくれるから。
私は、受け入れてくれる人の中にいたので、友人を持たなくても不都合はなかった。
家のことをすることも、身体が弱かったため、祖母の側で、お手伝いをしていたので、家事をすることはあたりまえで、嫌ではなかった。
おかげで、大人になって料理も掃除も、てきぱきとできるので、苦にはならない。家事は好きだ。
母から、1000円渡されて、2~3日帰ってこなくても、姉と弟の世話をしていた。母が帰ってきたときに、残ったお金を渡すと、褒められた。まぁ、毒親なので、食事がないことも家事をしないのも当たり前。
ただ、両親を見ていると、大人を信用できなくなったのは確か。
人間関係で、自分のプライベートに、他人が入る部分は、ほんの少しである。
距離があるほうが、めんどくさくない。ずっと、人の後ろ指をさされるようなことにならないようにしていた。
姉は、病院の娘、支店長の娘等、お金がある人を友人に、持っていたので、その人たちの合わせるために、親にわがままを言っていた。そんな姉の言うことは、両親は聞いていた。要するに私が、負の部分を押し付けられる形。
そんな姉の友人関係を見ていたためか、無理して取り繕う相手と付き合うのは、どこかで嘘をつくことや本当の友人関係は築けないのではないかと、なんとなく感じていた。
自分は自分で、他人と付き合うのに、背伸びや比べても仕方がないと思っていた。
慣れてしまっていたのかもしれないが。仕方がないと。
そのため、大人になって働きだしたらと、強く思っていたと思う。
だから、友人関係も、親の影響を受けたり、大人の価値観で、変わるような、自分自身の問題ではないことを気に留めない子に、育っていった。
生活をすることが、一生懸命で、今日は何を作ろうかな、お母さん洗濯してくれていないかなと。
ある意味、強い精神の子供だった。学校では、学校の生活だけで楽しむところは楽しんでいたし、他人の虐めや悪口などは、感じないし気にしない所があり、そんなことで、ぐずぐずするタイプではなかった。
親のことで、偉そうにする子などにははっきりと言い返していた。
「親がお金持ちだからと言って、あなたのお金じゃないでしょ」
「私のお母さんの仕事を、あなたにとやかく言う権利はない。あんた達のお父さんが、お母さんたちのお店に行くことだってあるじゃない。馬鹿じゃないの。ホステスの仕事を馬鹿にするけど、その馬鹿にしていホステスのお店に行くあなたたちのお父さんも馬鹿なの」
仕事に対して差別的言葉をなげかけられると、言い負かしていた。
小学生時代の友人と恩師に恵まれていたので、今の私があるのかもしれない。
良い友人との思い出があるので、大人になってから、友人や親しい人が欲しいと思わなかったのかもしれない。
幼少期の友人は大切だと思う。
看護師になって、ある師長の話を聞いてから、職場の人間とも、プライベートでは付き合わなかった。
師長の話は、「プライベートで、仲良くなると、よほどの強い人間でなければ、その相手の失敗を指摘できない。」
この話を聞いたとき、私自身、頼まれたら嫌と言えないし、情に流されやすいタイプだと自負していたので、職場の人間とは、職場だけ。
プライベートで、付き合うことも、飲みに行くこともしなかった。
大人になると、職場の人間と、うまくいくことは稀である。特に女の世界は、けっこう陰湿。昨日の友は今日の敵みたいな。本当に信じられる人はわずかである。
下手にプライベートで、付き合うと大変な目に合う。
看護師時代転職もしたが、その時の同僚たちとは、退職後の付き合いはない。
ものの考え方だと思うのだが、同僚同士仲良くなると、必ず、不満や愚痴になる。これがものすごく嫌だった。
うわさ話や、不満話は、心の中で、「そんなに不満なら、上に言えばいいのに」「人のうわさをしていると良いことならいいけど、自分が本当に確認したことを言うならいいけど、悪口は聞きたくない」
井戸端会議は、女性には、必要だそう。そして、ボケ防止にもなるらしい。
私も、話は好きだけど、悪意のある話は嫌いである。
話をしていて、「ごめん、私そいう話嫌いなの」と席を立つことがある。それで、相手はびっくりして、冷たい人だと距離を、置かれたこともある。
「内緒だけど」と言われると。「無理、私口が軽いから」と断る。
恋愛の話も身の上話も大好きだけど、他人のことを面白おかしく話す人と付き合いたくない。
自分自身のことでいえば、解決できないことはないので、友人たちに相談することはない。
困れば、弁護士、司法書士、警察、と専門に相談すればいいこと。
悩みはないのかというと、生きることに一生懸命で、悩んでいる暇がなかったということかもしれない。
子供の頃は、いい子でいたし、早く大人になって、働きたいと思っていた。
人間関係で、たとえだれが何を言おうと、自分が言ったこと、したことに嘘をつかない。これが今の私を支えてくれているのではないかと思う。
私は、嘘つきが嫌い。子供の頃に、親に嘘をつかされていたから。
大したことではない、借金の取り立ての人に、居留守をつかわされること。
借金の取り立ての人は、小学生の子供に、「お父さんいるよね」と。
泣きそうになりながら、「いない」と。怖い大人。助けてくれない親。
帰る時に、大声で罵声。
いまでも、トラウマ。
子供に正しい事を教え守るべき、両親に、嘘をつかされる。
嫌だと思うことをさせられるのが、両親だから、この人たちの子供だから。
大人になったっら、絶対に嘘をつかない、正直でいる。自分が責任の持てないことはしない。
友人ができる中で、自分が信頼する友人に、傷つけられることが起こったり、嫌な思いをしたり。
そうした人間関係で、自分は来る者は拒まず、去る者は追わずになっていった。
ただ、人間不信と言っても、誰とも接触をもたないとかではない。
その場、その場で必要な人間関係は、そつなくこなす。
人はその本人ではないので、心配しているようでも、他人事であると言うこと。
誰からも好かれることは自然な感情である、だから、にこにこしている。
不快な思いを他人に与える気はない。
自分との関係の深さは、ある意味平等でみんな一緒と言うこと。
付き合いの度合いを、変えない事、これにつきる。
他人の人生を引き受けることはできない、どんなに一生懸命、力になろうとしても、決めるのはその人である。
人間不信には、決して見えないと思う。
明るいし、喜怒哀楽があるし、相槌を打つのうまい、コミュニケーションを取るのは、得意である。会話には、積極的姿勢だから。
なのに、自分は人間不信と思うか。
一人でも平気だから。
家族に愛されているからだろうと思う。
私にとっての家族は、子供達。嘘をつくことなく、愛情をもって育ててきたことが、今の幸せにつながっている。
自分が死ぬときに、誰に会いたいかと、考えると誰もいないのである。
関わった時その時に、その相手のためになったら良いのであって、継続して付き合いたいと思わない。
その時その時が、大切で、関わった瞬間、私はその人のことを真剣に受け止めて、考え付き合う。
悩みがないこれは、本当。
身体が、慢性腎不全で健康でないことが悩みかと言えば、仕方がないことで悩まない。それよりも、きちんと付き合っていくだけ。
人間不信について考えるが、これはある意味楽かもしれない。
必要以上に、他人に干渉されないし、噂が立とうが、他人が何を言おうが、気にならない。
反対に、他人のうわさや陰口を、言って憂さ晴らしをしている人は、不幸にしか見えない。
生きているうちにどのくらいの人間とかかわるだろう。
その中で、一生付き合える人間は、何人いるだろう。
私は、子供たちが大切で、子供たちの幸せだけを願っている。
死ぬまで、ずっと、「愛している」こと伝えて受け止めてくれる。
本音で話ができる夫がいることも。
人間関係は、人生の経験、自分が生きていくために必要な経験だと思っている。
私には、残念なことに、プライベートに、他人を入れるほど、自分の心を開放するほどの人との関係が、できないし、これから先もないだろう。
ただ、自分は人間不信っぽいけれど、神様に感謝することができる。
幸せを考えるとき、幸せな人生だったと思える自分がいる。
無宗教だけど、神さまを信じている。
人間不信だけど、困った人に手を差し伸べないことはない。目の前に、困っている人がいれば、助ける。
でもそれだけ。
昔、同僚の勘違いで、無視をされ意地悪をされたことがある。虐め。
でも、その人の勘違いと分かった。誤ってはもらわなかったけれど、その人が、仕事で困っていることがあった時に、手伝った。
その人は、自分が意地悪をしていたことが、あるのだから、手伝ってくれるなんて思わなかったようだ。
私にすれば、仕事だから。その人が私に対してしたことは許さないと思っているけれど、だからといって、仕事に私は怨恨を、持って対応したくないだけ。
仕事中は、給料をもらっているのだから。仕事だもの。
その人は、その時に「ありがとう」と言ってくれた。
それでいいじゃないの。別に、プライベートで付き合うわけじゃないのだから。
それから、その人が部署を、変わるまで特に、問題なく仕事をした。
心の中で、許さないと思う気持ちはあるけれど、他人にされたから自分もなんて、できないししたくもない。
自分が嫌な思いをしたから、相手にもなんていう思いは、みじんもない。
結局、お天道様が見ていると思うし、長い人生の中で、幸せじゃなかった部分があるのだろうと、同情するから。
他人とうまくつきあっているのか、よく自分でもわからないが、孤独でも人は幸せであると言うことかもしれない。