自分らしく生きるために、これって、かなり難しいのか?
簡単なのか?
自問自答してみる?
子供の頃から、あの親だからとか、子供だったのに、周囲の目を意識する人間だった。
そのくらい、私の親は、いい加減だった。仕事も何をしているやら(特に父親)
母は、ホステスだったから、当然、夜の仕事をしている親の子供という目で見られていた。
親の仕事で、子供の価値も決まる世の中。
お金持ちの子供は、上品で勉強ができて、親がしっかりしていれば、それだけで、その子供は信頼を得る。(うわ~!なんかひねてる)
親がいい加減だと、その時点で、悪い子のレッテルをはられる。
だから、必要以上に、いい子で後ろ指を刺されないように、していた。
しかしである、いい子でいることでしんどいことはなかった。
「家のことよく手伝うね」
「弟の面倒、いつもよく見るね
「まじめだね。」
「いい子だね」
大人からの誉め言葉は私の子供の生活の中では、心地よいものだった。
子供の頃の、このことは「生きるために必要な知恵」だった。
そう生きるため、このことに尽きる。
その日に食べるものがなかったり、学用品を買ってもらえなかったり、貧乏であることの辛さは、社会に出るまで続いた。
だけど、貧乏でも、金持ちでも子供では、選べることはできない。親を選んで生まれることができない。
私は、そんな中でも、自分の境遇に不満はなかった。仕方がないというような投げやりな気持ちはなかった。それよりも「早く、大人になって働いて、お母さんを楽にさせてあげたい。お金を稼ぎたい」と思っていた。(本当に、けなげ)
今、仕方がないことやどうしようもないことに、もがくよりも、今を大切に一生懸命生きることに、必死だった。
学校で、習う良いことは守った。悪いと言うことはしなかった。
大人になって、悪いことや良いことって何だと思った。
人間社会において、「ルール」というものがある。秩序がないと、集団は暴走するからかもと思っている。
決まりごとがあるから、大きなことができるし、目標を達成できる。個人から集団としての力を、引き出すには必要だ。
しかし、このルールというものがともすれば、人として生きることの足かせになることも事実。
集団という「悪」。「みんな」と言うことの無責任。集団という陰に隠れて、個人攻撃。
自分らしく生きようとすると、集団からはみ出す。みんなと違うと言うことでの生きずらさ。
個人では、立ち向かえなくなる。心がやみ、自分が世界中で、たった一人の素晴らしい人間であることを否定する。
人は誕生した瞬間から、人生という時間を歩き始める、その人生の時間は、いつか、終わる。
自分が、いつか終わるという瞬間では、みんなと違う価値観や、思惑など持っていくことはできない。
どんなに他人が、あなたの人生にかかわろうと、決めるのはあなただ。
還暦を迎え人生をふりかえると、上を見ればきりがない、下を見ても同じ。
自分の人生が終わる時に持っていられるのは、自分の思いだけだ。
ならば、食べることができ寝る場所があり、自分の人生を幸せだと感じられる今を大切にすることが、一番ではないかと思う。
今死んだらと、私は考える。まだ、死にたくないと思うかもしれないけれど、それでも幸せだったと言うことができる。
幸せだったと思えることは、自分の人生をしっかりと歩いてきたと思えるから。
不思議なことだけど、神さまはいると信じることができるから。
一生懸命生きてきたら、心の幸福が、この歳になると感じることができる。
子育て中、仕事で頑張っているひと、人間関係で悩んでいる人、今まさに、他の人と違ってもいいじゃない。
生きていくことは自分らしくである。
自分が自分の人生を決める。
ただ、他人の人生を壊さないことだ。
人をだますこと、人を殺すこと、盗むことこれは、きっと、後悔をする。
幸せは自分が、自分で作ることだ。
人生は自分との闘い。常に、生きると言うことは自分が試されていると思うべし。
本当に、強い人は、自分を大切にしている人で、だからこそ他人にも優しくできる。
弱い人間は、自分をごまかし自分に嘘をついている人だ。
自分に正直になろう。
「悪」も「善」もあなたの心が決めることだ。
と言うことを、人生の折り返しで思う。
歳を取った時に、笑顔でいたい。