当たり前だけど、大切なこと。
当たり前っていうことは、どんなことだろうと考える。
子供の頃、両親にというより祖母に、よく言われたのは、「脱いだ靴は、そろえなさい」と言うこと。
子供たちにも言ってきたけれども、できている子がいない。
男所帯で、商売をしながらだったこともあるのだけれど、三人の夫たちも、誰もできない。
今は、夫と二人なので、私がそろえている。
なんとなくであるが、玄関の靴がきちんとしていると、気持ちがいい。
玄関に入った瞬間に、ここはきちんとしていると思ってしまう。
最近の親は、「靴をそろえなさい」とは言わないのだろうか?
祖母は、着物で過ごしている人だったし、祖父は刀鍛冶で、人の出入りが多かったせいもあるのだろ思うが、玄関はいつもきれいだった。
私の母は、しつけとか子供の教育とか、無関心だったので、しつけたぐいものは、小学校に入学する前に祖父母から、厳しくしつけられた。
あいさつも、家族にするのは当たり前。
これは、祖父が家督だったためではないかと思うのだが、祖父が箸をつけなければ食事はできなかった。
朝ごはんは、今でも覚えているのだが、祖父、父は一段上のところで食べて、私たち子どもは祖母と、一段下がったところで食べていた。
そのころは子供だったし、何も考えていないし、核家族になってからはそんなことは全然関係なく、子供たちと両親と一緒のテーブルだった。
といっても、母はホステスだったので、母と食事をすることはなかった。子供たちだけの食事だったけれど。
思うのだけど、礼儀作法て何だろう?
礼儀作法って、相手に対する感謝と尊敬の念を持つことだと私は思うのだが。
礼儀作法ができないから、いじめとか、虐待とかが多くなったのかと。
礼儀作法は、他人とのかかわり方、の大切なことを教えてくれるとても大切な、「ルール」ではないかと思う。
礼儀作法には、何も難しいことがあるわけではない。当たり前のことなのだが。
私自身も、できているかというと、どうだろう。
子供たちには、親でもあいさつはするべきといってきたので、家族通しでは、あいさつは当たり前。
いただきます、ごちそうさま、ありがとう、当たり前のことを家族通しでもする。
よく、子供に「親に感謝できないのであれば、他人に感謝することなんてできないでしょう」といっていた。
公共の場所では、静かにする。
当たり前のことを考えると今思えば、私も子育てで、忘れていたと思うことがある。
子供との付き合い方である。
子供は、自分に何を期待されているかを知りたいと言うこと。
子供は、自分が愛されていると言うことを確かめたいと言うこと。
私は親だから、当たり前に子供を愛しているので、子供が、愛されていると言うことを知りたがっていると考えた事もなかった。
だけど、忙しさから、邪見にあつかったり、感情的になって怒ったり、「愛していること」を伝えるよりも、「嫌われている」と思わせてしまった子供がいる。
大人いなるにつれて、傷つけたと謝りました。
いまでは、普通の親子ですが、子供に愛情を伝えるのに、何年もかかった。。
親子関係も当たり前ではない。人間関係としてはともすれば、一番難しい。こじれると、何年も修復ができないこともある。
兄弟がいればいるほど、比べて、自分は?と思うようである。
親子の愛も、伝えなければ、子供は不安。
今まさに子育てのご両親に、伝えたいのは、血がつながっているからこそ、当たり前と思わないことです。
親子でも、伝えて育てていかないと、他人にたいして「愛しています」とは言えないと思います。
人生の中で、当たり前が一番難しいかもしれません。