小学校の授業にあった「道徳」は、今の学校にはないのだろうか?
私は「道徳の時間」が大好きだった。
学年が上がり、新しい教科書をもらうと一番に読んだ。
私の子供たちの頃にも、道徳の教科書はなかった気がする。
「ゆとり教育」というものや土曜日が休みになったりと、私の子供の頃よりも随分と変わった。
子殺しや親殺しのニュースを耳にすると、「道徳」と言うことを教えてもらっていない世代の人たちが事件を起こしているのかと思ってしまう。
個人主義になり、子育ても夫婦のみで、地域のつながりも薄くなり、当たり前のことを、教えることができなくなっているのかもしれない。
人とのかかわりが少なくなり、何か問題が起こると、簡単に罪を犯す。感情のままに、衝動的に。
虐めの問題も、親が子供に自分のどうしようもない欲望をぶつける。
昔のように、家に誰かがいるわけでなく「おかえりなさい」といってくれる人がなく「ただいま」といえる人のいない家。
学校では、虐めが横行し、虐めた側は、案外裕福で母親が過保護だったり、いじめられる側は、母子家庭だったり、両親とも働いていたり、我慢強い子が多かったりする。
今も昔も変わらないのは、子供の心。子供は、親にはいい子でいることを、見せる。親の期待に応えようとする。弱い自分や悪いことをするところを隠す。親に嫌われることは、ある意味、社会の大人すべてに、受け入れててもらえないことにつながるのだろう。
一概には言えないし、すべてのことの「悪」に、今の状況が当てはまるとは、思ってはいないが、人としての「心」を育てる道徳の授業は、必要ではないだろうか?
精神科に勤務していた時に、若くして入院をする人たちの何人かは、子供の頃とてもいい子で、親に褒められて成長し、社会にでて、挫折をする。
いい子の母親は「昔はいい子だったのに」と今の子供を受け入れることができない。
親にとってのいい子というのは、成績も優秀、(国立大学等の高学歴の子どもが多い)品行方正、先生からも、何も文句のない子供。いつも、褒められ、叱られることもなく、親の言うこと先生の言うことを聞いて、社会に出る。
社会に出て、上司に注意され、同僚にばかにされ、自分の能力なさに絶望し、心を壊す。
親、先生に言うとおりに頑張ってきたのに、いい子だといわれてきた今までの人生が180度、間違いだったのかと。
親に、感情をぶつけ、暴力を振り、医療保護入院。
子供は、今までの人生はなんだったのか、親のためにいい子でいたのに、その親に、捨てられ、こんなところに入院させられと恨み、どんどん、壊れていく。
道徳の時間は、悪いことをしたらとか、こんな時はとか、心を強くし、人としての立ち振る舞い考えさせられ、みんなで、どうすればよかったかとかを勉強していたように思う。
昨今、しつけは家庭でというが、その親たちが躾の何たるやらを、わからず、自分達の都合の良いように、子供を、誘導し、操作しているのではと思ってしまうのは私だけだろうか。
人権と言うことを耳にするが、言葉だけが独り歩きしている気がする。
いつから、私たちは、言葉の真意を大切にしないようになったのだろうか。
看護学生の頃、ある程度経験をしたら、精神科の看護ができる看護師になりたい、夢はかなったが、心の病気は、周囲の人、その人が思う大切なかかわりを持った人があきらめては、治らない。
心を成長させる機会を学生の頃より、持たさなければ、自分で判断できず、依存症や本来持っている長所が短所になってしまう。
学校は、子供たちにとっての初めての集団の場であるが、それは特殊な環境であることを、親も先生も忘れてはいけない。